新しい寺の候補地を捜すよう聖武天皇から命じられた僧・行基が、八峯八谿(8つの峰と8つの谷)を持つこの山を八葉山(はちようざん)と名付け、桂の木を用いて観音菩薩像を彫り、天皇自らが記した天台寺という額を掲げて開いたと伝えられています。
その真偽の程は定かではありませんが、仏像の制作年代等からすると遅くとも平安時代後期、11世紀から12世紀の頃には創建されていたとみて間違いないようです。
「御山(おやま)の観音」、あるいは桂の木の根元から湧き出ている泉にちなんで「桂泉(けいせん)観音」とも呼ばれた天台寺は、古代最北の仏教文化の地として人々の信仰を集めました。
江戸時代、領主である南部氏からも厚い保護を受け、現在の本堂も万治元年(1658)、盛岡藩主・南部重直公によって建立されたものです。
しかし明治時代、廃仏毀釈による仏像の破壊や、代々住職を務めてきた家系が途絶えたことなどにより、天台寺は徐々に荒廃が進みました。
追い打ちをかけたのが戦後に起きた杉伐採事件です。
境内には樹齢百年を超えるような杉の大木が千本以上も存在しましたが、そのほとんどが伐採、売却されてしまったのです。
丸裸同然となった境内からは荘厳さが失われ、参拝者の足も遠のき、石段は壊れ草は伸び放題という無残な荒れ寺と化しました。
そんな状況に心を痛めた地元住民らの間で、昭和40年代後半から天台寺復興へ向けた機運が高まります。
保存会が結成され、報道機関も寺の歴史と現状を取り上げ、学術的な研究や植林活動が始まりました。昭和51年(1976)には著名な作家でもある今東光師の住職就任で注目を集めます。
そして天台寺の名を一躍広めたのが、昭和62年(1987)に住職に就任した瀬戸内寂聴師です。
今師の弟子で同じく作家の瀬戸内師は、軽妙な語り口で人気を博しており、その法話を聞こうと全国各地から人々が訪れるようになりました。
境内や周辺道路の整備が進み、比叡山延暦寺からは不滅の法灯の分灯を受けました。奉納された石仏が随所に立ち、瀬戸内師の提案で植えられたアジサイが夏には美しく咲き誇ります。
平成25年(2013)から令和2年(2020)にかけて、本堂と仁王門の大規模な保存修理工事も行われました。
天台寺は由緒ある寺としての姿を取り戻したのです。
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